1882+82=1964

2004年6月10日 連載
NHKプロジェクトX は、戦後史をやっている。
 明治15年、講道館柔道が始まって、戦後、国際柔道連盟は
組織され、1964年東京オリンピックで、正式種目となった。
 重量級までは、日本選手が制したが、オランダのヘーシンク選手の脅威は数年続いていた。

 大器晩成、上村春樹が1976年モントリオールの無差別級優勝に輝いたのは、
 相手の技の機先を制する左手首の柔軟な対応にあったとされる。これは師匠神永昭夫の
直伝の技である。つまり、対戦相手は技が出せない。封じ込める。
 モントリオールの前はモスクワであったが、一回お休みとなった。
その前の1968年ミュンヘンでは、上村は、国内で代表選考戦に敗れている。
 ミュンヘンでも、無差別級はやられ、5位どまりであった。
監督、神永の巻き返しは完敗した。
 
 神永、仙台出身、明治大学にまちがいないな、が、1964年
東京オリンピックの決勝前日に膝の靭帯断裂になったことは、
 昨夜のNHKぷろじぇくとXで、初めて公開された。これは、
いろいろ考えさせられる要素ではある。松平容保も、孝明天皇の
 勅許を早く指し示し、官軍はこっちだと言った方が良かったとも考えられる。

日本柔道が、自信喪失になって行ったのではないか。1964から、
 12年後の上村。
 1980年ソウルの人は、脚を負傷したことは公表し、エジプトのアラジン(仮名)を
  倒した。これは、アラジンが、ちょと、手加減したとも解釈されたのは事実であり、無根の話ではない。
1984年だっけ、斉藤は、シドニーだっけで、優勝。
 2000年バルセロナで、古賀と吉本が練習中、古賀が怪我した。
  しかし、古賀は予選から勝ち抜いていった。強いものは強いので、
怪我をしても、棄権で終わらなかった。翻って、1964の神永は、予選でも
 ヘーシンクにやぶれて、歯医者復活で、立ち上がったが再び、敗れた。
 靭帯は断裂したが、いいわけにはならないと思ったのだ。敗者だ。
しかるべくしてしかあった、その敗者の哲学を12年後結実させたのだ。

 オリンピックが何ぼの文字やい、という前に、そんな余裕が無かったので、あまり詳しくないです。  
 
 

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