奥の細道 だか、おくのほそ道 だか知らないが、
 あんなへんてこりんなわけのわかりにくい文章は無いよね。

 そうdふぇもないよ。

 まあある程度、教養も必要だわ差。

奥の細道の旅の松尾芭蕉は、どこでその旅を締めくくろうと
 考えるとも無く、よしこれで以降と思ったところが、
そこだったわkじぇである。

 では、あの、タイトルは、出発から決まっていたのか、
いつできたのか、と、どうでもいいけど、充分、国文学研究は荷は
 浮けまくる論考が存在する。

 ところで、松岡正剛氏の「線や千冊が」後7冊になってきた。
 長いたびももうゴールイン間時価、マラソン大会の
 テープが眼に浮かぶ。

 きょうはなんと、おくのほそみち が、掲げられ、

 なんとなく書き始められた一日分は、最長の枚数になっているかもしれないと思われる。
  途中段落に多く差し込まれたるは、あの人の挿絵である。

 芭蕉俳句の推敲、これはすごいものがある。
 句集、紀行文集の、編集作業。
 自己人生の編成。俳諧連の経営能力。
  そこに、松岡氏の編集皇學館が、働いてくる。

 松尾芭蕉、離脱の人であった。
 すなはち、段りん風はいかいというのか、
  武士、町人にも浮けまくる灰風。
 そいこを、やめて、芸術に行ったとする。

 えー、もう書かない、もはや、何を読んだか
  考え中。
 あ、読んでないんだ。ははは。
  
 奥の細道という地名は、
  宮城から山形へ向かう途中に?
  あるという。(確か、高橋富雄 氏)

 あそうだ、松尾芭蕉、体調優れない時、
  馬に乗った。
 馬子にも衣装、雲助(駕篭かき)、
  と言って、荒くれ者が多かったが、
 金も高いので、なるべく歩いた。
  歩く時、なんば と言って、
  右手右足とが一緒に出る、
  それが、江戸時代人の足の速さ長旅の
   秘密であった。(あの武道家、甲野義○ 氏) 

 

コメント

nophoto
RoborCatJuly
2007年8月5日14:30

 芭蕉51年の生涯は製本凍瘡ですね。東奔西走

シェークスピア 1616没

元禄文化 東山天皇? 上方町人文化

 元禄7年 帰郷送別吟

紫陽花や藪を小庭の別座敷 

麦の穂を便りにつかむ別れかな

   刈り込みし麦の匂ひや宿の内  利牛
麦畑や出ぬけても猶麦の中   野坡
浦風やむらがる蝿のはなれぎは 岱水

  帰路 訃報

 帰郷後さかんに「かるみ」を説く。

元禄14〜15年  赤穂労使

 化成文化  江戸町人文化

nophoto
@net
2007年8月5日15:16

年譜を見ると 伊賀に到着後 京都に出てそこで訃報

  では、炭俵 を読んで見ませう。

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