吉田東吾 「大日本知名辞書」(義経伝説 佐藤氏 から引用)

 庭渡 語源 の説である。

金成(カンナリ)

封内記云、金成邑、有市店而駅也、有号翁沢地、八幡宮、康平五年、源頼義勧請也、鬼渡(オニワタリ)大権現社、大同中、坂上田村麻呂所勧請也、不詳何神、

延暦十四年、坂上田村丸、奥州霧機(キリハタ)山の賊を誅せし後、遺賊高丸(悪路王の子)なほ徒党を集むるに因り、同二十年、田村丸再征伐として下向、金成邑に屯軍の時、神に祈り多くの沙金をほり得、料足乏しからず、以て兵旅を賑はし、終に高丸を誅せらる、因りて、此地を金田の里と号せしめらる、大同二年、田村丸重ねて下向、此地に金神(金山彦)の宮社を造営あり、之を金田明神といふ、(即、今の八幡宮の地主神也)時に、神化現して告りたまはく、吾は仁和多利(ニハタリ)神なり、又、水渡(ミワタリ)と云ひ、海を渡す船玉也、又、山川万里を直ちに走せ渡る故に、鬼渡神と申す、太古には岐神(チマタ)とあらはれ、猿田彦とも申しき、本地は大悲千手観音也。

今按、庭渡神は、白河関以北、奥州諸郡、到る処に之を祭る、其由緒縁起、紛紜として、帰着を知らず。而も、綜合して之を考へ、条理の存在を推し求むるに、畢竟するに、道祖、即、岐神にして、古書に阿須波の神といへるに同じ。万葉集上総国防人の歌に、
 にはなかの阿須波の神に小柴さし吾は祝はむかへりくまでに、
とあるを明証す。此事は、既に、下総国印幡郡公津の阿須波神社、東葛飾郡船橋の龍神社の条に所見ありて、古へ、道祖には、小柴さして旅行の安全を祈るを風俗とす。されば、式内宮城郡志波彦神社、栗原郡志波姫神社を初め、名取郡笠島の道祖神、黒川郡志戸田の柴社、いづれも同神と聞こえたり。此神は、庭中に祭るを法とせるが故に、又、庭辺(ニハアタリ)神とも称へられしか。是れ新案に出づと雖、古義に庶幾からん。

庭辺を、庭渡、庭鳥、鶏、新渡、仁和多利、海渡、鬼渡、身渡、水渡、など、所在に異書訛言を見るも、もと一語に出でしのみ。

僧祝の徒、これを本地観音と為し、或は船玉神、金山神に援引するは、多岐亡羊とやいはん。阿須波神は、古事記に、大年神の子、庭津日(ニハツヒ)神の同胞とす。庭津日は、庭辺の義なれば、庭渡(ニハアタリ)と同言と謂ふべし。万葉に「庭中の阿須波の神」とよみて、二神を一神とするも是の故ならん。

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