菅江真澄全集・第十二巻
かすむこまがた 続
桓武の御代に、屯し給ふとき、そのあたりより、里の子、ここらのこがねを、ほり出して奉るを、めで給ひて、金田のさととつけ給ふつ(ママ)。そが後は、金田の庄といひて、あまたのむらむらにわかつ、ここを金田のもと郷と定めたり。
田村麻呂、夷をたひらげ給ひてのち、鬼渡の社、てらし山の観音、照山南円寺を建給ひしといへり。ふるあとのこりぬ。頼義、義家かまへ給ひて、金田城と名をいひ、すなはち、康平五年、この御社をいとなみ給ひしといふ。その頃、大外記博士(従五位下)周防守清原成隆、中原清房、菅原公成、藤原正弘、これを清中菅藤の四の子といへり、みないのりのことを、つかうまつりて、加輿丁となりて、みこしをかかげ、先づやはたの御神を、さいたてて、いくさし給ひしとなん。成隆は、此社の祝となし給ひて、代々その末なり。寛治七年のころ、藤原清衡、八幡宮に、つかさあまたそへ、八幡山金田寺を創し、別当のそくに任し、南円寺のすへ寺とさためて、天台の僧たちをすませ、閻浮檀金のあみだふちをたて、八幡の本地仏と崇め奉り、保安元年に、八幡のみかたちを奉る、運慶の作るといふ。
(中略)
足利大崎、斯波左京太夫源家兼のきみ、郡県あらためのとき、金成邑と書給ひ、寺の名もなをし、永和二年のころ、探題大崎左京太夫詮持あらためのとき、天台の僧徒をはなち、宥義といへる、修験者に照山観音、鬼渡社、橘次の建し、三熊野の宮をまもらせ給ふ。宥義の遠つおやは、大外記博士成隆なりけり。験者となりて、出羽の羽黒山へ登りしは、康暦二年七月也。三迫の大先たちとなりたる、応永廿年九月七日、金成、三田鳥赤児、藤渡戸、末野、有壁、処を霞(ママ)に賜し処を、あるじの法印、かたり給ふ。くさぐさなることは、みなかいもらしたり。
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菅江真澄
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