成田に着陸しようとする旅客機が左右に振られ、再び上昇して羽田に行った。50便ぐらい羽田に変更。

気温が上がり野菜が出来、半額になった。


案外、日本の農業は食えてるようですね。


福島だけかな、品薄、みたいで、どうでしょうか。



国内では福島県さんということで風評被害になりましたが

海外諸国では日本という枠で水産物農産物を一括輸入禁止に

している事は似たような現象です。


日本は輸入しないと食品値上げになり

TPPで安く買えれば良いです〜が

金は無いことの事情は嫌ます
ので、海外で一次産業を盛り返す時期が

あるべきではないでしょうか。

3月7日の日記

2013年3月7日 旅行
桧枝岐村のメインストリートまで入ってはいましたが、沼田街道を、車道の途切れまで、尾瀬登山口まで行っていませんが、

もう一つに、R352 奥只見林道 銀山平温泉

銀山湖 奥只見ダム 奥只見の家

奥只見シルバーライン


何尾又温泉 大湯温泉

小出 と、道は続き、


" 酷道"は、のこるか、会津バスは通るか、一度駆け抜けて見たいところです。国道17から、関東へ。

352と17がT字に当たる所が、井口新田 小出インターも近い。小出駅
小出警察署
魚沼市役所
スキー場は、その東北に位置する。

もんだいは、中越地震でどうなったか、入広瀬村を超えて行ったが、

復興は出来ていりゃた。

京都守護職の会津は、会津から大砲を運んで行ったのでしょうか?

鉄砲大砲の操練は、本郷川原や小田山山麓で行っていた。

世界の趨勢からは、時代遅れの物であったか、どういう大砲が有ったのか、

企業秘密だったのかどうか、


幕末江戸湾警備で、江川太郎左衛門と言う神奈川県の代官が大砲鋳造と台場の

建設に貢献した。

箱館戦争では、品川台場から大砲を持って行って、備え、

箱館に有った大砲を新潟に移した。


蛤門の戦で、会津は15 cm口径の大砲を撃った事が

京都守護職始末 山川浩著に出ている。それは、林権助大砲奉行

山本覚馬大砲頭取 であり、町野主水が槍を持って突撃した。


その大砲は会津から持って行ったとは限らず、京で開設した洋学所

の活動もある事から、現地調達はありうると思っていますが、

トリビアルな追究もどうぞう どうぞと申し上げる他なく、


大砲の運搬は牛馬が良いらしい、南北戦争で中古の武器が

武器商人グラバー等によって日本に輸出され、パークスは討幕に踏み切っていたのであった、

という重要ラインが引かれている事は、インポータントであろうと~思います。


ありがとうございます。河岸段丘はどうしてできるか、小学校から理科になるか、社会か、おしえてるんでしょうか、

多摩川は、地質時代にというのか、だいぶ北に、埼玉県境近くをながれていたらしいです。

たちかわは、立ちの河、南北に流れると立ちになるのか、そう言う説があるようです。西から東に来てカーブした所ですが。

多摩川と玉川は、これは漢字の差だけで、玉川兄弟が、多摩川から引っぱって開削したので玉川浄水に。


懸樋は、石製らしいですね。

残堀川は明治以来、人工的に整備され、

立川段丘崖線は、国立市矢川駅、南武線のほうに延びているとおもいますがね、いや、奥多摩街道でない、甲州街道か、

その北に矢川が湧き出て多摩川に入るようです。

この矢川に残堀川の元流は入ったとし、

立川市富士見町の立川段丘崖を越える所は、真っ直ぐに滝を通した結果ですね。

近年は下水道もあり、あまり流れません。

これを小川で使う。山から里への境で ひっとらえい作戦。


まあ、会津慈眼君よりも、強力であろうか。


何れにせよ、最終的に隔離せねばならんことは共通の課題である。


壮快 ああそうかい、 前回サボッタ雪かたしは、あまりのさむさ、今日は緩み、


夜7-8の一時間もの。最後は熱くなって終わる。


軒先の雫が帽子に付いて来た。

かなりの積雪にたまげたが、中庭にっ全て収納してしまえる。あとは買い手

を探しているものの消えて行くだけであろう。なんだ君たちは雪も片さないで!


あ、オレだ。


会津若松市の飯盛山駐車場の線量が0.04と低い。この数値が元のレベルである。

他が舗装されていて、ここが砂利で、雨がしみこんだ、洗い流したと、素人考えをしたのですが、


とりあえず、砂利を敷くと遮蔽すると思われる。

砂地だとかえって高い、洗い流されないから高くなるようですが。


舗装だと、低い方に流され、染込みは少ない。


年間被爆線量1ミリシーベルト以上になった人が、2.25、2倍以上出たのが、よそに行っていたことがわかり、大体が、0.2以下と余裕がある。


会津若松、嘘でもいいから安全だとおもいたい。真実であろう。


食い物はちゃんと検定をとおっっているにであろう。

常にマスクして出てるが、気休めでしかなさそうだ。


あと、家の掃除に命が掛かる。

無論、高い地域には十全の配慮、移転も含めて、対策あるところ、

自主避難に対して会津若松議会の対応は国県の法制に従うとしているようだ。


ニューズは、ゼオライトを繊維状にしたものが、放射能物質の吸着に強い。

山から里への境で捕らえると良いとしている。そこから先は、田んぼがある、畑がある。


日本の自然、地形は、ロシアの大地ではない、はなから絶望してもいられない、むろん、海を汚さないようにその前でひっ捕らえるべきである。除染んも最大の検討と実践があるのであろう。

テレビ東京の 白虎隊 鶴ヶ城籠城戦批判

最終部二時間ほど視ることができたんですが、西郷は

米沢への特命をはたして、仙台へ向かって行くラストしーんは

秋枯れの野であった。


ならぬ事はならぬ


新たなコンセプトは、押サバ引け柔術の極意であった。

会津がダメなら、仙台があるさ、そこもだめなら、

下北の冬の守りが出来る。さらに蝦夷地があるさ。


ナポレオン破れたり。


吉十郎は、未来の白虎隊である。


ならぬ事派ならぬ


時を待て 雨の滝沢峠に静寂が訪れる。

天守閣に再び砲弾が飛び込んだ。

そして静寂。

天皇を称える儀式は、明治への改元であった。

この変でよかろう会津の義は貫いた、

容保公は白旗を掲げた。


午後一時半、茨城県北部沖で、福島県沖ともいえるが、結構長い地震があった。

最大震度4 これは余震としても



今後、関東大震災になれば、新たな大きい地震は


福島原発に止めを刺すかもしれないと危惧する。


あと、数年、今のうちに徹底した補修たいさくがひつようであろう、いそげ、


慌てず急げ、メロス君、信じているぞううっ。安倍君ですかね。いや、東電の顔。

立川断層は、、垂直な断層で在る事がわかり、段差が有るところは、あとから変えられたか変わったかしらんしが、

ともかく、逆だんでも正断層でもない事は、横揺れが大きい地震になると言えるのだろうか。

となると、立川断層は南北に揺れるが、両側の断層が同時に動くのかなんだかも解らないところ、

全体構造もメカニズムも不明であり、震災予測は難しいであろう。

活断層はまだ多くが発見されてはいないか、よく調査されないのである。

立川断層だけでさわいでも実態にはほど遠いのである。

災害省予算が他に行ってるわけであります。
音声入力なんて簡単音声入力をやってみようと思う 正確に入力されるもんでしょ

漢字変換中大変です

お菓子の音声入力の方に

話し方が早いとダメみたいですね

早口ではなさないでください

戦場カメラマンの人が 花しているように ゆくい堂 お話ください.

将来的に 書くよりもう絶対に早いですね これでいきましょう.
名にし負はばいざ言問はむ都鳥
我が思う人は在りやなしやと

隅田川 言問い橋の一節。
伊勢物語東下りの段 在原業平 古今集


ユリカモメ の登場。

ミヤコドリ と混同したものか?


ミヤコドリは、都 ではなく、水辺に棲む鳥ではないかと、

語源を考える。ミヤコ のミは、水。ヤコ は、奴。

解らんですねえ。

ユリカモメは、百合でしょうか。

嘴と足が紅い。

ゆりかもめ、モノレールになった。

伊勢物語に 都には見かけない鳥だった、とある事は、都にはやはり黒い都鳥の方が見られたのであり、

武蔵の国で、都鳥と聞いた事を不思議に思っている、と解釈すべきなのか、

つまり、都鳥は、住めば都という意味になるかもしれない。ユリカモメを

名称無く、都鳥と呼んだが、 都鳥ではなかった事が後世に関東では忘れられたのであろう。

  猶行き行きて武蔵の国と下総の国との中に
  いと大きなる河あり それをすみだ河といふ
  その河のほとりにむれゐて思ひやれば限りなく
  とほくも来にけるかなとわびあへるに渡守
  「はや舟に乗れ日も暮れぬ」といふに乗りて
  渡らんとするに 皆人物わびしくて京に思ふ人
  なきにしもあらず さるをりしも白き鳥の嘴と脚と
  赤き 鴫の大きさなる 水のうへに遊びつつ魚をくふ
  京には見えぬ鳥なれば皆人見知らず
  渡守に問ひければ「これなむ宮こどり」といふをききて

名にし負はばいざ事問はむ宮こ鳥
  わが思ふ人はありやなしやと

  とよめりければ舟こぞりて泣きにけり

 古今集
渡守に「これは何鳥ぞ」と問ひければ
  「これなむ都鳥」と言ひけるを聞きてよめる
                在原業平朝臣

名にし負はばいざ言問はむ都鳥


ということであると 船頭の気が利いた機転ということなのかと思った加考えなかった。
  わが思ふ人はありやなしやと





iPadを手にして、腰掛けに掛けてると、椅子の座面にもより、

尾てい骨に重心が掛かって痛くなって居たらしい。


今度、座布団一枚載せたところ、解決したと思える。


後ろにそっくり返る姿勢で、尾てい骨が、痛められ、ホーネット号で会津若松から立川まで行った翌朝、骨ガン、皮膚癌を疑った激痛が起きた。

それは全くの、疲労であり、iPadを東京に置き、別の背もたれがなく座面が厚いクッションの丸椅子に腰掛けて居たので問題なかったことになった。

会津に持ち帰ったところ再び問題化したのである。


iPad 実は重い、台湾本社の台湾製であろうアッサーイコニアタブレットの場合には、この痛みはなかったのである。

しかし、あっちはイコニア、こっちはiPad で調子があっている、それは、不思議な空間と物の組み合わせであり、

場所が変わると創作も良くなくなり、転居すると病気が治る。

尾てい骨に気をつけて、前のめりに腰掛けるべき。

若しくは、テーブル上に置く。

そのへんの宿場は、南に日野宿 は、甲州街道、

西に進んで、はいじましゅくは、八王子から北へ日光に向かう日光街道、国道16

ということでしょうか。

旧奥多摩街道は、旧甲州街道と重なる部分がある、

宝積寺に陣を取った武田が、多摩川を挟んで北条軍と対峙した、


郷地町、郷は、立河氏の郷と考えて良いかも試練です、未だみてないので書いて無いのですが。

東隣の柴崎町の普済寺が、立川城と言う物ですか、居館のあとに出来た、

南下して西から 南に回り込む残堀川は、最初は天然の多摩川支流、多摩川へ合流する多摩川水系ですが、立川城で掘と言う事になったのかなと考えて良いのかどうか、

狭山丘陵の方から、玉川上水を越えて昭和記念公園内を南下して来る、

極めて面白いごうちまちは、立川市野発祥の地という事にして良いのかどうか、

なお、空堀川は荒川水系、小平霊園からの黒目川の北方でしたか、

所沢はなんだっけ、

鎌倉時代、郷と領主はあちこち居たと、いえる、武蔵七党という平安末期からの関東武士団の支族は、細かく在ったのであり、ということで、所沢も、沢が、その矢張り荒川水系が、沢でないかい、
柳瀬川だったようですが、

所沢め、所沢城はあったかどうか、館ですが、


歴史は多少わかってると思いますが、焼き団子は、米が不出来で粉食で団子ということになるらしく、蕎麦と麦、ウドンが、また、北関東にあるところ、武蔵野にあるわけですが、大麦と小麦の比率は、時と場合によるところ、その差は何だっけ、非常に調子が悪かったですがすっかり忘れており先づ、
郷地町の一件、この辺で、長くなりましが、、、

意外にも、輸入の貿易活動もあったらしいのは、山国会津とは違い、
港湾のむつ湾から国際港 函館港に連絡して行った。

会津藩の(斗南藩の)船も購入したようである。

しかし慣れない海外貿易では事件も起きる事になった。

また、 廃藩置県は、打撃になる。

土地を離れ、開墾の放棄は離散して行った。特に下北半島の不毛は

恐山の風土を意味する。かもしれないと、思った加考えなかった。

より、北海道は適地だった。農業。


斗南から、屯田兵に。

廃藩置県後、東京で巡査になった。
北海道立公文書館に米買った記録があった。事件は、金が無いので結局不利な契約条件に陥った。
件名:斗南藩士川崎尚之助外2名英国商人ブレキストンヘ取組ノ広東米証書ニ付裁判等ノ件
年月日:明治4.5.7/請求記号:A 4/217(件番号66)
件名:入牢人米蔵省三並ニ斗南県川崎尚之助東京ヘ差送、司法省ヘ引渡ノ件
年月日:明治5.8.-/請求記号:A 4/223(件番号45)
件名:斗南藩川崎尚之助よりブライキストンに係る一件に付、取調返答方書状
年月日:明治5.2.14/請求記号:簿書/115(件番号24)
件名:ブレキストン川崎尚之助ニ係ル出訴ノ件
年月日:明治5.2.4/請求記号:簿書/527(件番号25)
件名:元斗南藩川崎尚之助等ブレッキストン組ト差縺ノ件ニ付司法省ニ於テ取調ノ為出京ノ件
年月日:明治6.3.31/請求記号:簿書/367(件番号2)
件名:英商ブレッキストン組ヨリ川崎尚之助外ヘ係ル廉司法省ニテ一纏裁決ノ件
年月日:明治6.8.13/請求記号:A 4/252(件番号4)
件名:旧斗南藩川崎尚之助外函館在留デンマーク人テユスヨリ買入米代滞リノ件
年月日:明治6.9.24/請求記号:A 4/252(件番号6)
件名:ブレッキストンマール社ヨリ川崎尚之助等ヘ係ル一件証書類返却ノ件
年月日:明治6.6.21/請求記号:A 4/255(件番号91)
件名:ブレッキストンマール組ヨリ川崎尚之助等ヘ係ル一件証書類預リ書有無ノ件
年月日:明治6.6.27/請求記号:A 4/255(件番号96)
件名:丁抹人テュースヨリ旧斗南藩士川崎尚之助等ヘ係ル、広東米貿易違約ノ件
年月日:明治6.12.16/請求記号:簿書/5820(件番号72)
件名:青森県貫属川崎尚之助外1名英人ヘ係ル一件ニ付開拓使ヘ引送ノタメ護衛人差出ノ件
年月日:明治7.4.23/請求記号:簿書/10403(件番号101)
件名:旧斗南藩士川崎尚之助外2名へ、丁抹人テユースヨリ係ル広東米・大豆貿易違約ノ件
年月日:明治7.3.20/請求記号:簿書/1172(件番号36)
件名:青森県貫属川崎尚之助外1名、函館在留英人ニ係ル一件ニ付、函館へ宿村送ノ件
年月日:明治7.4.23/請求記号:簿書/5778(件番号88)
件名:旧斗南藩士川崎尚之助外2名、丁抹人テュースニ掛ル違約一件ニ付、司法省ヨリ呼出ノ件
年月日:明治7.4.17/請求記号:簿書/5795(件番号18)
件名:旧斗南藩士族川崎尚之助外2名司法省ヨリ引渡ノ件
年月日:明治(7).4.17/請求記号:簿書/5565(件番号18)
件名:旧斗南藩当時青森県士族川崎尚之助英商フレッキストンヘ係ル訴訟ノ件
年月日:明治8.3.9/請求記号:簿書/5615(件番号2)
件名:丁抹国人デュースヨリ旧斗南藩士川崎尚之助ヘ掛ル広東米大豆貿易違約ノ件
年月日:明治8.6.3/請求記号:簿書/5615(件番号3)
件名:旧斗南藩当時青森県士族川崎尚之助死亡跡相続人ノ件
年月日:明治8.9.30/請求記号:簿書/5615(件番号4)
件名:旧斗南川崎尚之助、英国人ブレキストンニ対スル訴訟中死亡ノ件
年月日:明治8.1.18/請求記号:簿書/5624(件番号9)
件名:丁抹国人デュースヨリ旧斗南藩川崎尚之助ニ係ル、唐米一件訴訟ノ件
年月日:明治8.1.28/請求記号:簿書/5632(件番号5)
件名:青森県貫属士族川崎尚之助病死ノ件
年月日:明治8.2.13/請求記号:簿書/5633(件番号43)
件名:青森県貫属士族川崎尚之助、外国人関係事件ニ付裁判所ニテ吟味中病死始末ノ件
年月日:明治8.2.13/請求記号:簿書/5636(件番号25)
件名:青森県士族川崎尚之助、英人フレツキストンニ対スル事件ニ付出函途中病死ノ件
年月日:明治8.11.19/請求記号:簿書/5638(件番号97)
件名:旧斗南藩川崎尚之助、英国人ブレキストンニ対スル訴訟中、死亡ノ件
年月日:明治8.1.18/請求記号:簿書/5808(件番号9)
件名:青森県貫属士族川崎尚之助、病死ノ件
年月日:明治8.2.13/請求記号:簿書/5812(件番号46)
件名:丁抹国人デュースヨリ旧斗南藩川崎尚之助ニ係ル、唐米一件訴訟ノ件
年月日:明治8.1.28/請求記号:簿書/5813(件番号5)
件名:青森県士族川崎尚之助、英人フレッキストンニ関スル事件ニ函館出行途中、病死ノ件
年月日:明治8.11.19/請求記号:簿書/5814(件番号115)
件名:英商ブレッキストン並ニ丁抹国人デュースヨリ旧斗南藩川崎尚之助ヘ係ル訴訟ノ件
年月日:明治8.3.9/請求記号:簿書/5821(件番号2)
件名:青森県士族川崎尚之助死亡跡相続人ノ件
年月日:明治8.
年月日:明治9.7.4/請求記
砲火迫る中 家宝の茶碗で茶を嗜む西郷タノモの母か嫁さん、一方、白虎隊は飯盛山で会津は終わった、もう駄目だと、腹を切ることに。

ここで、さいごうたのもが空手を教えて居る六年前の回想、切腹の作法を習う。

西郷の子供に白虎隊は居ないけど、井深だったかが挨拶に来た冒頭は、滝沢口からの出陣前。

七十郎、小太郎、他、日新館の武士の子は、田圃で、西郷の指導を受ける、西郷の弟が居る、

稲刈りを手伝った。西郷の教育は、かくなるものだった。子供は、一人居た。甥が一人。

京都守護職の一千人の派遣を、論ずる内藤ら重臣の長いトーク。

コマーシャルで余裕が有る民放TVは時間は掛かる。嫁と対策を論じる西郷の翌日、

再論争のシーン。タノモは、江戸へ行く前に

什の教えを復唱させる。

会津が大事か公儀が大事か、諌める事に。

中沢鉄之助 随行。


底をつく会津藩の財政を懸念。 領主返上を懇請。

容保公の京都情勢分析。熱い茶を飲ませる。

黒糖饅頭おいしんだよねー。


日本の霊障

2013年1月26日 旅行
霊障の地 と某阿含宗総長が書いていたこの会津で、

僕も様々苦労していた。とても悪い人が居て、多いですね。


それが霊障の故ではあるのかと思うのではなく、


やはり土地特有の人間性じゃ、形成されるのではないか、

戊辰会津戦争が悪かった、と考えた事はあったかどうか、

多分その時から、邪悪な性質を受け継いだので藩四日、

やはり霊障という事の意味になるのであろうか、と思ったか考えなかった。

逃走経路

2013年1月20日 旅行
東北は雪が厳しいようです。東京も雪騒ぎもありお忙しいところ、ビエント明察さんはいかがお過ごしでしたか。

学校の廊下に鉄製の縄梯子が、入った箱があったような気がするが、

非常階段がなかったような、それは消防法上違法建築なはずですが?

普通の住宅の二階も飛び降りるしかない状態ではと、ちょっと恐い状態です。

非常階段に物を置かないようにしてください という事があります。一方で、

エレベーターが止まると、車椅子が逃げれんしです。

非常階段も屋上に出て、滑り台のようなチューブの中を降りる物が大きいビルでは有るのかどうか、僕は訓練をやってないのです。
お友だちの過去の日記にコメントするなどのことは今後の課題として今、放射能問題をまとめると、

①放射能の元を絶つ とは原発の封鎖封印である。

② 避難

③除染


除染は、表土を剥ぎ取ってまとめて埋めると、収拾がつかず、不法投棄も出ているが、 或る程度、吸収して凝縮する事であり、洗浄して土を戻す。


初めから吸収する物体を使うと、その物体を回収して隔離埋設する。

放射制物質の吸収物質は、ゼオライト がどういうものでどう使うのか、

専門技術があるが、固体として、水路にあれば、そこで吸収するであろう。

高濃度に汚染される水溜りが、公園の非舗装にあるので、そこにダルマさんを埋めて置くと、

ダルマさんが人身御供とて放射能を放つ事になる。


...樹液塗料の放射能物質吸収...

放射能物質も多種あるところ、分析と実験で効果的な開発が進められているが、

塗料を塗って吸収されそれを剥ぎ取るか、一体で処分する構造で利用できる。

以上、簡単ですが、除染技術の確立と実践の急ピッチな展開を期待している次第です。

地名 町名 が隠れた例は有るでしょうね。

なるほどですが、東海道が先に北へと、海沿いに鹿島神社、塩釜、多賀城と

大和は、延びて行ったということであろうと思い、勿来の関が先、早いだと思いますが、

一方で北陸道の日本海側は、東海道よりも早く開け、会津はその両方の内陸の要衝として、早くに古墳文化が出来たようですが、

東山道は、あとから多賀城に向かって福島県を縦断して伸びる時に、

白河の関が、国道294のクロスポイントに出来るということが考えて、

最初は、境の明神が会津に向かって関になったのではないか、会津からの関であると、考える必要がありでしょうか。

また、294は、湖南、猪苗代湖西岸ルートではなく、山道だったと思うのは、隠岐神社だったか、いや違うな、なんだったか、か通った時にあったです。ルートの神社あり。湖南は 脇街道で、294に入った、294とは常陸会津道ということで言った訳ですが。

しかし、猪苗代湖がひとつ、会津居平よりも古い文明拠点だったか、

あまり魚はとれなかったとおもいますが、酸性、時代によりますが、

常陸会津猪苗代道も先行するのか、すべては、謎ですというか個人的にも想像の域を出ません。長くなりました。東海道水戸?から会津へが、東山道から会津へと既成のルートをこんにちは国道4から会津へと入っているという感じです。なんとでもいえるのかもしれませんが。

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